2020年3月8日(日) 1031回
<お参りの本質>
子育てのこころ(禅文化研究所)
盛永 宋興氏著(元花園大学学長、大珠院先住職)より抜粋 その3
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仏さまを金(きん)でつくったり、銅でつくったりし、その仏さまに仏飯(ぶっぱん)をあげたり、お花をあげたり、お茶をあげたり、お灯明をあげたりして礼拝しますが、このようなありがたい教えをわれわれに残してくださった方々に対する、やむにやまれぬお礼の気持ち、感謝の気持ち、そして親しみの気持ち、こういうものから出ているのだということを理解して頂きたいのです。
決して、仏さまに向かって手を合わせて、何かをしてください。私のために子どもが丈夫で、主人も丈夫で、家内安全で、お金がたくさん入ってきて・・・・・・と、そういうことを頼むために仏さまが祀(まつ)ってあるのではないのです。もし、間違って私たちの願いごとを頼むために神仏をおがんだとしたら、私たちは気づかないままに、神仏を自分の欲望に奉仕する奴隷にしてしまったことになります。これを偶像崇拝というのです。偶像とは物質でつくられた像という意味よりも、自分の欲望にしたがう神仏をつくりだすことの意味なのです。
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神社やお寺にお参りをする時には、お賽銭を入れて、手を合わせてお願い事をする。ところが、そのお願い事が叶ったことはあるだろうか。そもそもそのお願い事というのは、今が満足ではなく、幸せでもないから、願いごとをしているのではないかと思えるのです。つまり自分の欲望とも言えるでしょう。
今の生活に「有難い」と思えば、その瞬間に幸せを手に入れることができる。そのような気持ちになれば、神社やお寺では、感謝を伝える場となるのではないかと思えるのです。
人間は弱いです。日々の生活の中で感謝を忘れがちになってしまいます。だから、時には、神社やお寺という神聖な場所に出向き、心を落ち着けて感謝を伝え、感謝で生きることを誓うことが、お参りではないかと思います。