2017年3月10日(金) 905/1000
<人生を楽しむ生き方>
皆さん、おはようございます。
『努力ゼロの幸福論』大和書房
著者:小林正観氏
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人生を楽しく生きるというのは、どういうことでしょうか。「高級店で料理や酒を楽しむ」、「好きなだけお金を使って遊ぶ」、「テーマパークや遊園地で思いっきり遊ぶ」、「海外旅行に出かける」、「リゾート地でゆっくりと過ごす」、それはそれで楽しいと思います。
けれども、人生を楽しむ本質ではありません。人生の真の楽しみ方は、「自分の存在が喜ばれているという喜びを実感しながら生きていく」、ということ。まわりの人から、「あなたがこの世にいてくれて嬉しい」、「あなたに出会えて良かった」、「あなたがそばにいてくれるから人生が楽しい」、と言ってもらえる。それが喜び、楽しみ、幸せだと感じる毎日を送ることです。
あなたがものすごく欲しいものを手に入れたとします。確かにそれも楽しく、幸せなことかもしれません。しかし、人に感謝されるのと感謝されないのでは、喜びの質と大きさが違います。
「人に喜ばれる存在」になった喜びは、人間にとって最高の喜びなのです。ほかより抜きんでる必要はありません。優れている点がなくても大丈夫です。どんな立場からでも、どんな角度からでもかまいません。自分らしさを生かして社会に参加すれば、それだけでいい。
「家をつくる大工さんの仕事はみんなに喜ばれている」、
「熟練したプロの技で、頑丈な壁に仕上げてくれる左官職人も、みんなに喜ばれている」、
「毎朝欠かさず、新聞や牛乳を配達してくれる人も、みんなに喜ばれている」、
「私たちを安全に運ぶ電車の運転士や旅客機のパイロットも、みんなに喜ばれている」、
「人に感動をもたらしているプロスポーツ選手も、みんなに喜ばれている」、
「人を笑顔にするお笑芸人も、みんなに喜ばれている」、「子育てをしているお母さんも、人類の宝のために貢献することでみんなに喜ばれている」、
大切なのは本人が「喜ばれている」と実感して生きているかどうか、です。
あなたはどれくらい「喜ばれている存在」になっているでしょうか。
今からでも大丈夫。ぜひとも喜ばれていることを実感して、まわりに「ありがとう」と伝えてください。それが本当の意味で「人生を楽しむ生き方」であり、真の「人生の目的」だと私は思うのです。
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倫理法人会では、「人の喜び我が喜び」という教えがあります。それでも自分に余力というか、余裕がなければ、「人のために何かをする」という気にならないのでしょうか。僕はそうではないと考えたいのです。自分のできる範囲のことをして差し上げる、ということでいいと思うんです。
たとえば、一日一個ゴミを拾う。こんな些細なことなんだけど、誰かが拾わなければならないわけですから、その誰かの手間をほんの少しだけ手助けできた。ある意味、自己満足かもしれませんが、それでいいんじゃないでしょうか。
会社は連携プレーで仕事をしていますから、次の人がやり易いようにしてあげる。そのような小さな実践の積み重ねが、その人の「徳」を積み上げていくんじゃないかと思うんです。
「徳」って、とてもよい言葉です。やっぱり「徳」は自分のためだけでなく、誰かの役に立つことで自然に溜まっていくものですよね。よく葬式の時の参列者で、故人の人徳が分かるといいます。
「徳」は押し売りではなく、エゴでもなく、相手に喜んで欲しいという純粋なもの。人生を楽しむということは、一人称ではありません。人と人が集まって、お互いに「おかげさま」の中で楽しく生きていくことじゃないでしょうか。おかげさまは、もらうことばかりでは成り立ちません。与え、与えられるという利他の心の中で育まれるものだと思います。