2023年1月3日(火) 1060回
<孝経を読む:その3>
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孝行にもさまざまの方法がある。昔は日本でもよく孝行な息子を表彰しました。そこで、こんな話があります。あるとことにいた孝行息子が自分よりも孝行な息子がいるという話を聞いて、どういうことをしているのかと思い、訪ねていくんです。その人の家に行くと、母親だけがおりまして「今日は息子は畑に出ています。そのうちに帰りましょうから、ゆっくりしていきなさい」といわれる。それで待たせてもらっていたら、そのうちに息子が帰ってきた。すると母親がタライにお湯を入れて持ってきて、その息子の足を洗い始めた。訪ねていった人は、これがどうして親孝行なのかと不思議に思ったわけです。母親に汚れた足を洗わせているんだからね。
そのうちに夕方になると「まあ食事をしてから帰りなさい」といわれ、そのうち「泊まって帰りなさい」といわれるので、その間もずっと見ていたら、食事の世話も母親に任せっきりで、しかも文句をつける。また、母親が「今日は疲れただろう」といって息子の足を揉み、肩を揉んでやっている。これは親孝行どころではないと不審に思って、その息子に聞くわけです。
「世間ではあなたのことを孝行息子といっているが、そうは見えない。どんな孝行をしているのですか」、するとその人はこう答えます。
「いや、私は非常な不幸な子供ですけれども、母が私の足を洗うのをこよなく喜びます。食事の世話も肩を揉むのも喜んでやってくれています。私は親を喜ばすことが孝行だろうと思って、母のやる通りに任せております」、母親の気の済むようにしているというわけです。
「自分は不幸な息子だから、なんとか一所懸命働いて母を安楽にしてやらないといけないと思って努力している。その様子を母が見て、足を洗ったり、肩を揉んだりしてくれているだけのことで、私が頼んでやってもらっているわけじゃないんだ」
このように、孝行というものは、自分が孝行だと思ったときには不幸が芽生えているということです。「足らん、足らん」と思っているところに真の孝行があるんだと真の孝行があるんだということですね。
「孝経 人生をひらく心得」 伊與田 覺著(致知出版社)
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私が子供の頃は、とても面倒見がよい母でした。それが、中学生や高校生になってくると、うっとうしくなってくるんです。思春期という時期もあると思いますが、当時の私は口うるさい母から離れていたいと思ったものです。
母は88歳となり、歩くのもままならない時があります。毎週、母のもとに行きます。昼寝をしたり、買い物に行ったり、手伝いをするわけですが、59歳に息子に変わらず面倒を見てくれます。昼寝をする時には、枕を持ってきて「ここで寝ろ!」って言ってくれるんですよ。枕を持ちに行くのも時間がかかるわけです。59歳の息子に母として面倒を見てやりたいんですね。また、手をつないでスーパーに買い物にいくわけですが、食材などを買ってくれるんですよ。母が買う物は結構質素ですが、欲しい物を値段を見ずに買ってくれたりします。
母親は、いつまでも自分の大切な息子なんです。だから、してやりたい、与えたい、と思うのは母心というものなんでしょう。昔は、「そんなもんはいらん!」と言って、母の心を踏みにじっていましたが、今は常に「ありがとう!」と言って受け入れています。
本文にもありますように、母のやりたいことを存分に受けきることも親孝行なんだと思えています。