2017年1月31日(火) 867/1000
<どうやって生きるか>
皆さん、おはようございます。
修養のすすめ(致知出版社)より引用 その15
著者:北尾吉孝氏
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しばし混同されがちですが、志と野心は全く違ったものです。製薬メーカーの研究者であれば、「新薬を開発することで多くの患者さんの命を助けたい」というのが前者を指し、「この薬を開発することで社内で評価を得、しかるべきポジションを得たい」というのが後者を指します。野心は己の幸福や自己満足で終わるもので、一代で完結してしまい受け継ぐ者は出てきません。
対して、志は広く社会と繋がりを持って自分の死後も、同じ志を共有する者に引き継がれていくものです。
曹洞宗の開祖・道元禅師は、「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない」と言われています。この両者は、その志をいかにして次代に引き継ぐかを考えながら生きているか、あるいは全くそういったことに思いを致さないで生きているかが、その分岐点となるものです。
一言でこれは死生観の問題であって真に志のある人とは、人間死すべき存在であるが故に生を大事にせねばならず、生ある間に後に続く人々への遺産を残していかねばならないことを知っている人を言うのでしょう。そして、その遺産とは物的なものでなく「志念の共有」ということであって、それが分かっているかどうかで志ある人か否かが決まると道元禅師は言われているのだろうと思います。
遺産と言っても、何も歴史的に名を残すような事業をしたり、大政治家になったりすることではありません。自分がしっかりとした人生修養をしていく中で学び得たものを活かし、何か世の中のため、人のためになることをなし遂げ、次代に引き継ぐようになれば、それで良いのです。
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人間はいつか必ず死にます。「どうせ死ぬんだから」、あるいは「命ある間に精一杯生きよう」という考えは対照的です。
僕も53歳になって人生の折り返しを過ぎて、60歳までの年齢を考えると少し焦ったりもします。自分のやっていること、やろうとしていることが、少しでも人様のお役に立てることでありたいと思っています。この世に産まれて、役に立っていない人、役に立てない人はいないと思うのです。
例えば、仕事で考えて見ると。事務処理を淡々とこなすだけでなく、「この事務仕事は何のためにあるんだろうか、改善できないだろうか!」、「次の人のためにもっとやりやすくしてあげよう!」と実践するだけで、案外仕事が楽しくなってくるものです。そのように考え方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えたりします。
「人間はどうせ死ぬんだから、頑張ったって仕方がない!」なんて悲観的になる人と、「生きている間にやれることはなんだろか!」と一生懸命に考えている人では、全く対照的で生き方が変わってきます。
僕が考えるに、毎日をなんとなく過ごすし、日々を同じことの繰り返しの中に生きるのではなく、「どのように生きるのか?」という崇高な問いを考えることが、とっても大切なように思えるんです。簡単に答えが導き出せるわけではありませんが、その答えを見つけようという思考そのものが、自分の行動を大きく変えていくものだと考えているんです。
人間はいつか死にます。「どうせ死ぬんだから」と考えるか、「死ぬまでどうやって生きるか」と考えるか、どちらも死にますが、生き方が大きく変わってきます。