2016年12月17日(土) 822/1000
<正しく生きていく>
皆さんおはようございます。
致知1月号(致知出版社)
「看経地獄」と遂業して見えてきたもの
比叡山延暦寺一山 戒光院住職 髙山良彦氏
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「他人様のために、他人様に喜んでいただけるために、あんたはこれから頑張らないといけないよ」
これが母が私に最後に言った言葉です、考えてみれば仏様の抱かれる願いもまた、すべての人が幸せに、楽しく、生き甲斐を持って生きられること、そのことに尽きるのではないでしょうか。
私はこれからの人生、ご縁をいただいた一人ひとりに相応(ふさわ)しい処方箋をともに考え、少しでも何かのお役に立てたらと願っています。日々の日課を続けられるのもそのための準備です。
「続けることはよいことだ。よいことは続く。つづくことはよいことの証だ」とよく話されていました。正しい願いに添った行いであるなら、それは必ず続けられるし、いつかは仏様にその願いが届くはずです。そのことを信じて、これからも一途に歩み続けてまいります。
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悩んだ時に相談できる人がいない、一緒に悩んでくれる人がいない。お金も物も不自由がなくても、ひとり孤独で虚しいとするならば、生きることに寂しさを感じてしまいます。 でも、誰かに頼られたり、誰かのお役にたっているという実感があるとすれば、生きる力、生きる希望が湧いてくる。
やはり、自分が相手にして差し上げたことで相手に喜んでもらった方が、自分だけの喜びよりもっと大きな喜びが得られる、と学びました。
倫理の教えでは、「人の喜び我が喜び」という教えがあります。
しかし、日々の生活の中では、自分勝手な振る舞い、自己中心的な言動がついでてしまいます。だから、自分がどうあるべきか、どう生きるか、という生き方の学びをしていかなければ、正しい実践ができないと思うわけです。これが実に難しいのです。
自分だけの喜びでは、自分に甘くなり長続きしません。自己を磨くための行動は、生きる目的をはっきりと定めていくこと。それが誰かのお役にたつことであれば耐えられる、そんな気がするんです。「正しく生きていく」ことは、自分を生かすため。自分を生かすことは、人様のお役に立つため。そのために髙山さんがおっしゃる日々の小さな行動の継続があるのだということを学びました。