2017年6月4日(日) 991/1000
<人の縁、仕事の縁>
皆さん、おはようございます。
「サラリーマンと経営者の心得」 新世書房 より抜粋 その5
著者:丸山敏雄氏
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職業に貴賤の別があり、身分に上下のへだてがあるようにお考えですが、それは職業そのものに差別があるのではなく、「自分がそう思う」のです。
足に履くものをこしらえて売る人は賤しく、頭にかむるものをこしらえ商う人は尊いのでしょうか。一見して汚い商売ーーーそれをきらい、いやがる人がありますが、それこそ大きい間違いです。
世には、便所に関係する仕事とか死人に関する仕事とかを賤しいことと思いますが、これは錯覚であり迷信であります。人のいやがる仕事、これを喜んですることこそ、本当の聖業です。これがもしなかったとしたら、世の中はどのように困ることになってしまうのでしょうか。
便所は修行の道場でありまして、禅寺は三黙道場の一つとなっていて、中に仏をまつり、礼をして入っていきます。また便所掃除がなによりも尊い修行であるとされていることは、これまで宗教や修養団体でよく見ることでしょう。
葬儀ということは、まだこの上もない神聖なことでありまして、火葬は昔から浄化(きれいにする)の第一等の仕方でありますので、このことに関係している仕事は何によらず貴いことは、申し上げるまでもありません。世間では、僧侶や牧師は尊いが、棺桶作り、葬儀屋・おんぼうなんどは賤しい、と思うのは大変なあやまりです。
医者が尊くて同じ仕事の産婆が賤しいと思ったり、仏壇が貴くてそのすぐ裏にある便所が賤しいと思ったり、人のからだでいうと、上半身が尊くて下半身が汚いと考えたり、これはすべて錯覚と申しまして、目のまちがい、頭の狂いからくるのであります。
こうしたバカバカしい間違いを直さなければ、民主主義などと大きいお題目をとなえましても、念仏しながら魚を釣るようなものです。ある町の名物男で、市会議員で”大衆の父”としたわれている方があります。それは葬儀屋さんであります。それ死人があると聞きますと、飛んで行って世話をしてやる。まずしくて困っている家ほど、ていねいに世話をしてる。人は喜びの場所に集まるのですが、悲しみの所には近づかぬ。一家に死人があるというような悲しい場合に駆けつけて世話をしてくれるほど、有り難いことはありません。
自分がこの世に生きている、その意味を生かし働かす天職を、いったい何と心得ているのですか。自ら賤しめばこそ、人がこれを賤しむ。人のきらう仕事を喜んで進んでする事ほど、世の中に尊い事はありません。
我が生命の元である職業を、いやしみきらうことから、こうした不幸に出会いながら、何も知らずに苦しんでいる者が多いことをお察しください。こんな心で自分の商売をきらっていて、もし繁昌したら、この世はさかさまです。
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自分の仕事は、会社から与えられて存在しているのではなく、社会から必要とされているから存在してと考えた方が仕事に対する姿勢が変わってくると思うのです。
会社があるから職場があります。職場があるから仕事があります。その仕事を「仕事なんかどこにでもある」、「仕事をやってやっているんだ」と考えれば、心が地獄と化していきます。
「与えられた仕事を一所懸命にやろう」、「仕事は有難い」と思えば、「この仕事でお役に立とう」、「この仕事でみんなに喜んでもらおう」というように仕事の姿勢が変わってくると思うのです。これこそ、その人の「天職」と成り得ます。
仕事との向き合い方次第で、仕事が「天職」にもなり、「地獄」にもなります。つまり自分次第ということです。
よく”ご縁”を大切にしよう、ということを聞きますが、仕事もご縁でありますから、仕事を大切にする人は、幸せに導かれていくと考えています。