2016年12月11日(日) 816/1000
<涼しいな>
皆さんおはようございます。
「二度とこない人生だから今日一日は笑顔でいよう」生きるための禅の心 その6
PHP研究所
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺氏
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かなしみも
くるしみも
きよめまろめて
ころころと
ころがしゆかん
さらさらと
おとしてゆかん
いものはの
つゆのごとく
生きていれば悲しいこと、つらいこと、乗りこえられないことはたくさんあります。それらに出会うことは誰にも避けられません。それも「大宇宙大和楽」のひとつです。
だからいろんな目にあっても、悲観するのではなく、それらを「ころころところがしゆかん」「さらさらとおとしてゆかん」という真民先生の言葉は美しいと思います。
確かにイモの葉に露が落ちると、光り輝く丸い玉になって、ころーんと転がっていきます。あんなふうに生きていこう、というわけです。
真民先生は、「仏法とは涼しい風である」と述べています。それは真民先生の母親のある言葉から発見した言葉でした。
戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた真民先生は、四国で教員になるため、妻子と母親をつれて九州から四国に渡ります。
まだ、戦後間もない頃ですから、木造の粗末な船に大勢の客がすし詰めになっています。夏のさなか、蒸し暑い船内で、生まれたばかりの真民先生の子どもが泣き出します。まわりの人から「眠れない」と叱られもしたそうです。
一晩かけて、船はようやく四国に着きました。四国の地を踏みしめた母親はひと言、
「お大師さんの国は涼しいな」と言うのです。真民先生にしてみれば、母親にこんなにもつらい思いをさせて申しわけなかったという気持ちがあります。
母親も昨夜はろくに眠れなかったのですから、愚痴のひとつも出て当然でした。でも晴れ晴れとした顔で、「四国に吹く風は涼しいな」と言ったのです。
暑いとか、つらいとか、不愉快だと言うのではなく、「涼しい」と言う心。それはつらいことや苦しいことがあっても「涼しいなあ」と受け止める心です。
つらいこと、悲しいことを露のようにころころと転がしていく心です。そこに真民先生の生きる本質を見るのです。
つらい時、「つらい」「悲しい」と愚痴を言うのは簡単です。でも言ったところで、つらいこと、悲しいことが減るわけではありません。思い通りにならないことがあっても、「つらい」とか「悲しい」と愚痴を言うのではなく「涼しい」と言える心が苦しさを乗り越えさせるのです。
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日常生活の中には、不平不満、愚痴を言いたくなるような気持ちになるのは誰しもあります。でも、そんなことを言ったところで問題の解決には至りません。逆に自分の吐いた言葉が自分の心を蝕(むしば)み、運からも見放され、顔つきまでが変貌していくと言います。
僕は人の顔をよく見ます。「この人、いい顔してるなぁ!」っていう人を時々見ます。だけど、自分の顔っていうのは鏡の中にしかいません。どんな顔をしているのか分かりません。だから、自分に降りかかってくる現実を、相手が接してくれる自分を、見ることじゃないだろうか思えているんです。人は鏡とよくいいますよね。
不平不満を言えばきりがありません。そんな時、横田さんの言うとおり、嫌な気持ちを丸めて、「ころーん」と転がしていく。気持ちとは裏腹に「涼しいなぁ」と言う。心を平静にもっていく本質が「涼しい」という言葉に込められているように思えます。
人間の修行というのは、日常生活の中に十分にありますが、それに気づかないで埋もれてしまっているんですね。