2017年5月30日(火) 986/1000
<歴史を知る>
皆さん、おはようございます。
「その時 歴史が動いた」心に響く名言集(知的生き方文庫)より引用
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昭和20(1945)年のクリスマスの日、GHQと政府各省庁との連絡のため設けられた終戦連絡中央事務局に、当時43歳だった白洲次郎が姿を見せます。それは、マッカーサー元帥に昭和天皇からの贈り物を届けるためでした。
「適当にその辺にでも置いてくれ」、ぞんざいに扱うマッカーサーに、白洲は激怒します。
「天皇からの贈り物を、その辺におけとは何事か!」
その剣幕に、さしものマッカーサーもあわてて謝ったといいます。
最高権力者にさえ物怖じしなかった白洲には、一つの信念がありました。
「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
イエスマンばかりの日本政府の中で、はっきりものを言う白洲次郎は、GHQによって「従順ならざる唯一の日本人」と記録されています。
白洲次郎は、明治35(1902)年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれました。19歳の時、イギリスの名門ケンブリッジ大学に入学。
昭和3(1928)年に帰国後、伯爵樺山家の令嬢、正子と結婚、貿易業に携わり、海外を飛び回る生活を送るようになり、やがて樺山家と親しかった外交官・吉田茂と知り合います。
敗戦の翌月、白洲は終戦連絡中央事務局の責任者として抜擢され、新憲法の草案づくりなどに参画することとなります。
白洲は、自らの手記に、「今に見ていろという気持を抑えきれず。ひそかに涙す」と記し、GHQの主導でつくられたこの憲法こそ敗戦国の厳然たる現実を露出したものだと悔しさを滲(にじ)ませています。
83歳でこの世を去りますが、「葬式無用、戒名(かいみょう)不用」という、型破りな人生を駆け抜けた男らしい遺書が残されていました。
「私は『戦後』というものは一寸(ちょっと)やそっとで消失するものだとは思わない。
我々が現在高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものなっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて『戦後』は終わったと自己満足してもよかろう」
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憲法改正論議が行われている。護憲派、改憲派の双方の意見を聞いたり、本を読んだりしていますが、無恥な僕にとっては、どっちつかず。なんとも分からないわけです。でもなんとなく感じることは、国というのは、自国を自分の力で守ることができなければならいと思うのです。
経営をしていると、たまらなく悔しいことはあります。そんな時は、非力であるが故になすすべがなく、ただ耐えるしかないときはあるわけです。
今の”良し悪し”を語ることは誰にでもできます。肝心なことは、そこに至るまでの”歴史を知る”ということが大切だと思えるのです。
アイデックスは創立62年を迎えました。先人の方々が数知れない困難を乗り越えてきたこと、そこには数知れない悔しい思いもあったことでしょう。しかし、諦めずに耐えてきてくれたからこそ、現在があるわけです。だから、今、働けていることに感謝し、今を真剣に生きること、働くことが、恩に報いることであり、次の世代の人たちへ大切なメッセージを残すことになると思えているのです。