2017年5月29日(月) 985/1000
<深山の桜>
皆さん、おはようございます。
「江戸の庶民の朝から晩まで」 KAWADE夢文庫 より引用
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江戸で桜の名所として有名だったのは、上野の寛永寺だ。この花見の習慣、もともとは「一本桜」といって、一本の桜の名木を楽しむものだった。
江戸には、三十三桜と呼ばれる名木があり、三間もあるような大きな老木が珍重された。そして、たとえば武家であれば、酒をひょうたんに入れてお供をひとり連れ、その名木の下へ行って花を愛でながら酒を嗜(たしな)む。町人でも教養のある者は、静かに歌を詠んだりして過ごす…。これが本来の花見だったのである。
ところが、天保(1830年)の頃になると、「飲んで食べて騒ぐのが花見ってもんよ」という江戸っ子連中が現われた。なにしろ、この連中は飲んでおおはしゃぎするのが目的だから、一本桜などには目もくれない。
「いっぺんに咲いていたほうが派手でいいじゃねぇか」というわけで、やがて桜の木がズラリと並んでいる場所が、人気のお花見スポットになっていったのである。めずらしいところでは、吉原遊郭でも花見をすることができた。といっても、もともと吉原に桜の木はない。毎年三月になると、よそから桜の木を移植してきて、わざわざ桜並木をつくったのである。
「昨日まで ない花の咲く 面白さ」と川柳にも詠まれているが、夢を売る吉原ならではの手の込んだ趣向であった。
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致知出版社の藤尾社長の言葉を思い出します。
「致知」の創刊当時、「こんな難しい雑誌はだれも読まない」と揶揄(やゆ)され、発行部数が伸びず、ある方に相談したそうです。
その方は、『深山の桜は、土手や公園に咲いている桜ではない。深い山奥に咲く桜だ。だれも気づく人はいない。 何年か、そして何十年かが過ぎ、やがて人々は少しずつ、その見事な桜に気づくようになる。すると、その桜を一目見ようと、そこに少しずつ人が集まる。初めの頃は、そこに道はないが、やがて道ができる。致知は、土手や公園に咲いている桜ではない。深山の桜だ』。
藤尾社長は、その言葉に奮起したそうです。今では、「致知」の到着を心待ちにしている愛読者が全国津々浦々に及び、「致知」を使った社内教育の社内木鶏会実施企業が広がってます。
先月、父が亡くなる前に語ってくれた言葉を思い出します。
「社内木鶏会、頑張れ。俺も全国大会に行く!」。この言葉が忘れられません。