2016年8月25日(木) 708/1000
<お墓参り>
皆さんおはようございます。
致知9月号(致知出版社)より抜粋
「師に足下を照らしていただき、仏師の出発点に立てた」 その2
仏師 江里康慧氏
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「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」
(解説)人間として生まれることは難しいのに、私は人間として生まれてきた。仏法に出会うことは難しいのに、私は今、仏法を聞く機会を得ている。この世に人間として生まれた深い意味と尊さを知るということはとても大切であり、それは、まさに仏法の教えをきくことである。
この愚かで、どうしようもない身は、人間に生まれたこの一生涯において、もし救われることがなかったら、もう二度と救われるチャンスはないでしょう。仏法の教えより、人生の真実の意味を謙虚に尋ねてまいりましょう
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お盆休みに、実家のお墓参りに行ってきた。そこでちょっとびっくりしたことがあります。8月12日に、お墓参りの時、墓石の土台が崩れてしまう夢を見ました。その後、お盆休みの時に妻と次男、母とお墓参りの時のことですが、母から「墓石の土台が割れているので、建て替えるよ」なんて言うので、少々驚きました。
お墓の前で般若心経を唱えたら、なんだか心が落ち着いたような気がします。
仏法はよくわかりません。人間として生を受け、いつか死ぬという人生において、どのように生きていくべきか、という教えが仏法なのでしょうか。
聞いた話ですが、「人生の目的は何か。人生の目的を知らずに生きているのは、行先の分からぬバスに乗っているのと同じである。しかし実際には、多くの人がこの大事を知らない。」ということでした。
人生の行先を知らない我々は毎日何をやっているのだろうか。その場に留まっているに過ぎず、目的地に辿り着かずに死を迎えるのだろうか。目的地に着いたら何があるのだろうか。 人間の人生の目的は一つでしょうが、そこまでのプロセスは一人ひとり違うでしょう。その目的が何か。その何かに気づくためには、何を考え何をすればいいのでしょうか。お墓参りの時に思ったことでした。