2016年8月24日(水) 707/1000
<へばりついてくる>
皆さんおはようございます。
致知9月号(致知出版社)より抜粋
「師に足下を照らしていただき、仏師の出発点に立てた」 その1
仏師 江里康慧氏
仏師(ぶっし)とは、日本における、仏像などの制作する者に対する名称である。
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師匠は「造るという意識を捨てよ。仏は木の中に既におわします。仏師はその周囲にへばりついた余分なものを取り去るだけだ」ともおっしゃっていました。
これも最初は何のことかさっぱり分かりませんでしたが、仏師としての経験を積む中で、また大乗仏教の根底にある「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」(一切衆生は皆、悉(ことごと)く仏性を有している)という言葉に触れて、その意味を掴めるようになりました。
周囲にへばりついている煩悩や執着など余分なものを取り除かない限り、人間の仏性は輝かない。その意味で仏像も人間も同じです。
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生まれる時は、本当に純白な心で生まれてくる。汚れのない人間の本来の美しい姿です。 ところが、この世という世界の中で現実を生きていると、心や肉体の欲望、怒り、執着という、いわゆる煩悩に支配されてしまう。ひとたび支配され、体にへばりつくと、次第にその厚みが増し、生まれた時の純白な心という美しい光が覆い隠されてしまう。
体中にドロドロとへばりついているものを、取り除いても、取り除いても、べったりとくっついて、なかなか離れていかない手ごわいものです。やはり自分のことしか考えないという身勝手な心持ちが、光を閉ざし暗黒へと引きずり込んでいくのでしょう。
自分は正しい、人への思いやりがあるなどと思い込み、闇の自分と向き合わないのである。闇の自分と向き合うことは、とても恐ろしいことです。
しかし、自分という人間は尊い命である。粗末にしてはいけない。自分という人間を大切に磨きあげていくには、自分の心の闇と向き合わなければ、その実態は何かを捉えることができず、へばりついているものを取り除くことができないと思うのです。
自分には悪い所、弱点、欠点はたくさんあるけれども、よい所もあると思う。自虐的になるのではなく、「自分を生かす」ことを考えていこう。
「自分を生かす」ということは、自分のためだけに行動するのではなく、相手の喜びのためだったり、社会のためだったり、でありたいのです。そのために自分を知るということ。醜い自分も、美しい自分も一つであるということです。
そんなことを書きながらでも、生意気で傲慢というヘドロが体にへばりついてくるのです。