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人生の集大成 浜松大空襲

2016年08月09日

2016年8月9日(火) 692/1000

<人生の集大成 浜松大空襲>

 

皆さんおはようございます。

 

過日、浜松西倫理法人会のモーニングセミナーで父が講師をしました。

株式会社アイデックス 取締役会長 鈴木喜徳氏 その3

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日本本土にB29が飛来し爆弾を投下しました。浜松にも何回となくB29の空襲があり、その都度、防空壕に逃げ込みました。私の逃げ込んだ防空壕の50メートルくらいの所にも爆弾がさく裂し、防空壕が大きく揺れ死ぬ思いをしました。

防空壕の中におばちゃんがいて「頑張ってね」とまめを3粒ずつくれました。たとえ3粒でも勇気づけられました。

 遠州灘にはアメリカの航空母艦が停泊し艦砲射撃を打ち込んできて、大きな被害がでました。浜松駅前に大きな防空壕があり、砲弾が直撃し大勢の方が亡くなりました。私の浜松工業学校の教官もなくなりました。

 空は頻繁にB29の編隊が飛来し空襲警報が鳴り響いておりました。通常、B29のような爆撃機は、目立たないようにするために曇り空に飛行します。ところが、勝利を確信していたアメリカは、B29を晴天に編隊を組んで悠々と飛ばしてきました。B29の戦体は銀色で青空に映え、飛行機雲を出してとてもキレイでした。B29はレーダーを避けるために銀紙をまき散らし、私の実家にも落ちてきました。

私が目撃した時も同様で、東京に向かうB29を見ました。世にいう東京大空襲のときです。B29は紀伊半島、富士山を目標に東京を目指すのです。

B29が飛来すると空襲警報が鳴り、電車が止まります。その後、爆音が鳴り響きます。日本は高射砲を使ってB29を狙って反撃しますが、B29は1万メートルの高さなので玉が届きませんでした。でも日本の戦闘機がB29に襲いかかり、B29が火を噴き南の海上に逃げ去った時、みんな手を叩いて喜びました。

 

 

 

 浜松は、焼夷弾を落とされ全焼しました。油脂の玉なので消すことはできません。私は学徒動員で中島飛行機にて戦闘機の部品製造に携わり夜勤でしたので、外に出て逃げ回りました。田んぼのあぜ道を走り、焼夷弾が

「ザッザッザッザザアーーー!」と大きな音を立てて落ちたので、伏せると水の中でした。見上げるとB29は超低空で飛行しており、その大きさというのは、巨大で今でも忘れることはできません。また弁天の海で戦地に送る塩の生産をしていました。その帰りに空襲に合い、艦載機に機銃掃射され貨車の間に逃げ込みました。見上げると艦載機も低空飛行だったので飛行士の顔がはっきり見えました。

 空襲警報が発令されると汽車も電車も止まってしまうので歩くしかありませんでした。(汽車とは蒸気機関車のことです)家まで10km以上歩きます。

 佐藤町の友だちの石川君の家を訪ねたら、家の柱に爆弾の破片が数多く突き刺さっていました。また、馬込川堤防で「助けて!」と傷だらけの人が数人いました。 川のあちこちに人間の体の一部が浮かんでいました。私は助けることはできず、見過ごすしかありませんでした。また、艦砲射撃であちこちに不発弾が転がって おり、いつ爆発するか恐ろしい思いをしました。

友だちの藤田君の五島村の部落は、流れ弾が落ちて部落が全滅し、田んぼは爆弾の破裂した後に大きな穴が空いて、雨が溜まって大きな池ができていました。この流れ玉で藤田君の両親はなくなりました。

 

 

 

 

 浜松は全焼し焼野原で、デパートの松菱と日本楽器などの高い建物が少ししか残っておらず、とても見晴らしがよかったのでした。この浜松大空襲により市街地の 大半が焦土と化した中でも奇跡的に3本のプラタナスの木が生き残りました。昭和39年には、「戦火の中からよみがえり市民と共に生きた木」として「市民の 木」と命名され、現在も浜松駅北口広場と浜松城公園にて今も大きく育っています。

 

 

私 の卒業した浜松工業学校も戦災にあい焼けてしまいました。焼け跡に竹の柱にすだれで囲った教室で授業をしました。教科書は新聞紙くらいの紙に印刷して、 ページ数を合わせ、それを切って自分で糸を結んで教科書として使っていました。戦争は終わり、空襲もなく電車も走る、安心して通学ができて授業も受けられ る。戦争が終わって本当によかったと思いました。また、昭和19年12月7日に東南海地震があり大きな被害がでました。この大震災は、戦時中であったので 隠され、「幻の地震」と言われています。父は家の棟が地面についたと言いました。その時は、父は気が動転して錯覚をしたほど激しい揺れだったのだと思いま す。学校の防火水槽は水が飛び出し、運動場に溢れていました。

 

 明日につづく。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

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