2016年6月3日(金) 625/1000
<気遣い、心配り>
皆さんおはようございます。
「正しく生きる」 より引用 その1
著者:鍵山秀三郎 (発行所:㈱アスコム)
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目に見えないものは、目に見えるものよりも大事なことが多くあります。そして、その「見えないもの」を見る方法はあります。
「人の心」は目に見えませんが、「心遣い」は目に見えます。
「人の思い」も目に見えませんが、「思いやり」という形で見ることができます。
「気」も同様に、「気配り」という形で見ることができます。
目に見えないものを、さまざまな形で見る。これが「配慮」であり、かつての日本は、そうやって穏やかな社会をつくってきました。
いま、それがなくなったため、人間関係が希薄になって混乱しています。
だから、暮らしにくい世の中になっているのです。
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他人からの気遣い、心配りは嬉しいものです。特に自分が辛い状況にあるときほど有難く泣ける時さえあります。そんな時ほど人の有難さが身に染みるときはありません。
では、他人からの気遣い、心配りが分かるのでしょうか。鈍感になってはいないだろうか。自分が他人に同じような気遣い、心配りをしたことだからよく判るのではないかと思うのです。逆に、「他人になぜ相手が気づいてくれないんだろう?」と思っていることと同じくらいに、自分も他人の気持ちに気づいていないのではないかと思うときがあります。
ある本に、『気遣いとは、相手に気をつわせないこと、気づかれないようにやるものです。相手に気をつかって相手から感謝されてしまったら、逆に相手に気をつかわせるようでは、自分もまだまだ未熟であると反省したほうがよいのです。』とありました。
自分の気遣いのレベルの低さにみっともなくなります。 それでも目に見える気遣いも大事ですよね。褒めたり、労ったり、ちょっとした贈り物や親切で相手が笑顔になって、自分も笑顔になれば、その場は幸せの波動とオーラに包まれます。
人間は一人では生きていけないことは分かっています。自分ひとりだけのことではなく、相手への思いやりの心があれば、自然に湧き出てくる行動や言葉があるものです。その時、自分という存在が自分にいるのではなく、相手になり切れるかどうかが、その人の器の大きさを決めるのでしょう。
そんなことを考えると、もっと自分を見つめなければならないと考えるようになりました。