2016年2月24日(水) 525/1000
<尊い自分に気づくこと>
皆さんおはようございます。
致知出版社 致知3月号
「願いに生きた禅僧たちの知恵」 より抜粋 その3
鎌倉円覚寺管長 横田南嶺氏
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貪りの炎に燃えている人々に、貪ってはいかんと言ってもますます貪り、怒りに狂っている人に、怒り憎しんでもしょうがないと言っても怒りの炎がますます燃え盛るのは、自分自身の宝に気がついていないからです。
自分の宝に気がついていないから外ばかりに攻撃の目が行くのです。ですから、誰もが持つ宝を見失ってしまっているがために燃えさかる貪りの炎、憎しみの炎、愚かさの炎を収めるために自らの宝に気づいてもらいたいというのが仏の願いに他なりません。
白隠禅師は最晩年、その願いを「雪を担って、古井を(うず)む」という言葉で表現されました。石や土を投げ込めば、どんなに深い井戸でもいつかは埋まりますが、雪をいくらなげこんでも、決して埋まることはありません。
その無駄事と思われることを馬鹿になってやり続ける。一人ひとりが明徳、仏心という素晴らしい宝を持って生まれているということを、ありとあらゆる人々に知らせ、気づかせてあげる。他から何と言われようともその願いを抱き続けていく。
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世間では幼児・老人虐待、親殺し、子殺し。人間とは到底思えない残虐な事件が相次いでいる。世界を見渡せば戦争という人殺しが日々くり返されている状況を考えると私たち一人ひとりに何ができるかを考えたいものである。
しかしよく考えると、我、周囲を見渡しても人殺しまでいかなくても、親子、夫婦、社員、友人などの人間関係においても醜い言い争い、悪口、陰口は日常的ではないだろうか。極端であるが、そんな日常的ないざこざの延長が人間の醜い面を増殖させ、悲惨な事件に発展しているように思うのです。
命は尊いもの。人間は他の動物、植物の命をもらって、自らの命をつないでいる。スーパーにいって買って食べるからではない。
そのように考えると命というのは尊いものである。だからこそ尊い自分に気づいたとき、自らを生かすために怒り憎しみという感情に支配されていては、何も生まれず発展がないことを感じるわけです。
命は尊く、己も尊く、意味があってこの世に生まれてきたことを知る。そのことに心底気づいた時、生きることに真剣に向き合う自分に目覚めるように思うのです。