2016年2月22日(月) 523/1000
<今日があり、明日がある>
皆さんおはようございます。
致知出版社 致知3月号
「願いに生きた禅僧たちの知恵」 より抜粋 その1
鎌倉円覚寺管長 横田南嶺氏
******************************************************************************************
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)という言葉について、泰道先生は、『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』という仏典にある譬(たと)え話を使ってよく説明してくださったものです。それは一羽の小鳥を巡る、実に味わいの深いお話です。
山に餌(えさ)を探しにきた一羽の小鳥が道に迷ってしまいます。すると、動物たちが現れて、食べる物や眠る場所を与えて介抱し、小鳥はいつしかその山に暮すようになりました。
ところが、ある日、風に吹かれた木々が擦れ合ううちに火がおこり、あっという間に火は森全体に燃え広がってしまうのです。
最初こそ、ライオンや象などの動物たちも火を消そうとしましたが、どうにも手にを得なくなって皆山から避難することにしました。
ところが、ふと振り返ってみると、あの一羽の小鳥が近くの池に飛んで行っては、羽に僅かな水滴を浸し、火にかけ続けているではありませんか。羽も真っ黒に焦げかけています。その様子を見た動物たちは、「無駄なことは止めよ。我われが力を尽くしても到底できないことなのに、あなたが数滴の水を羽に浸しかけたとしても、この火を消せるはずがない」と口を揃えます。
ところが、小鳥は「私がいくら頑張ったところで火を消すことができないのはよく分かっています。けれども、私はこの森にお世話になりました。お世話になった森が燃えていくのをただ黙って見ているわけにはいかないのです。私は自分の命がある限り、水をかけ続けます」と答えたというのです。
それを聞いた動物たちは、「あの小さな小鳥でさえ頑張っているのだから、私たちも努力しないわけにはいかないな」と、引き返してきたのでした。
その様子を神々がご覧になって火を消してくださったーーー。
そういう譬(たとえ)話です。仏典には、火を消そうと願った小鳥こそ、お釈迦様の前世であったと説かれてあります。
この話に私たちが学ぶべきことが多くあります。
この小鳥のように無駄なことだと周囲から言われてもやむにやまれぬ気持ちで何かを
実践し続けていくと、その姿を見た人たちがいつの間にか感化され、一緒に頑張り始めるのです。
山火事は神々によって消されたとされていますが、これはきっとその願いが次の世代へと受け継がれ、やがて現実となることを意味しているのではないかと思います。
******************************************************************************************
一人でもやり続けるには、心の底から「願う」という信念がいる。私たちは自分のために行動するということは以外にもろいものです。愛する人のためならば命さえも惜しまないという気持ちをもっています。その対象は家族でありましょう。
でもよくよく考えると、現在自分のこの身があるということは、両親や家族だけでなく、多くの人に支えられ生かされていることに気づくわけです。その時、この身を犠牲にしてまでも守るという究極な選択までもいかなくても、受けてきたご恩に報いるための行動をすることが本来の人間のあるべき姿のように思えるのです。
自分のためだけに生きることほど虚しいものはなく、そういう人ほど、常に愚痴や不満を言い孤独となっていきます。
松下幸之助翁は、
「一人の目覚めが100人に及び、
100人の目覚めが1000人に及び、
1000人の目覚めが会社全体に社会に及ぶ」 と述べられています。
この言葉から気づかされることは、はじめの一歩は誰かが考え始めなければ生まれることはないということです。たった一人の行動が周囲の人を動かし波紋の如く広がり、大きなうねりとなって山をも動かす力となっていくと信じたいのです。
そのために今日があり、明日があると思いたいのです。