2015年11月27日(金) 436/1000
<行(ぎょう)>
皆さんおはようございます。
発行:致知出版社
致知12月号より引用
「極限の行に挑む」
比叡山延暦寺円龍院住職 宮本祖豊氏
比叡山延暦寺大乗院住職 光永圓道氏 対談その1
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(宮本)
世間で荒行、苦行といわれる行も、やっている本人はそんな思いでやっているわけではないんですね。自ら身を投じているわけですから、荒行というのはよそから見た言葉です。これは何も行の世界にだけ言えることではなくて、例えば、オリンピック選手は、他人が見れば肉体の限界と思われるような厳しい鍛錬に自ら立ち向かっていく。会社に勤める方も、仕事でぶつかる壁を乗り越えていくことは、当人にそういう意識はなくとも最大の荒行なんです。
一人ひとりが一歩でも、半歩でも前に進もうと努めること。自分を少しでも高めるために打ち込んでいくことがやっぱり行なのかなと思います。
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生きるということは、息を吸って吐くという生命を維持するためだけでなく、自分の精神レベルを高めていくことであると考えるのです。
欲望への執着を戒め、仕事や家庭、いろいろな苦難を乗り越えていく。これが宮本住職のおっしゃる「行」というものであれば、生きるそのものが「行」ということになる。そうであるならば、苦難から逃げるのではなく、耐え忍びながら苦難に果敢に向かっていき、それをクリアすると、次のステップアップした「行」が天から与えられる。それは、その時、その人のレベルにあった「行」という苦難であり、死ぬまで続いていくことになる。
苦難から逃げることができるがそうではない。逃げた場合、その時は逃げた気になっているが、次は前回の「行」にさらにプラスされ、逃げられないほどの「行」がやってくるのである。
これはこの世の仕組みであると考えた方が素直に受け入れられる。しかし、「行」は苦難というものばかりではなく、チャンスというものもあると思うのです。
「あなたにこの仕事を任せたい!」
引き受ければ、楽ではないが苦難と考えるか、チャンスと考えるか。それは考え方次第かもしれません。
そのためには、まずは自分の「やる気」である。「一歩前に踏み込んでみよう!」、というやる気が自分を振るい立たせてくれる。
「よし、やるぞ!」である。