2015年10月16日(金) 394/1000
<善と悪>
皆さんおはようございます。
二宮尊徳(二宮金次郎)氏の7代目子孫 中桐万里子氏と座談会 その6
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金次郎は善悪を大事にしない。「善なる生き方をしろ!」とは言わず、味のある生き方という。味は酸いも甘いもあり五味がある。
善人はとかく善に偏りがちでよくない。何かを見えなくしてバランスがよくない。しかし悪に偏ってもだめ。善悪の両方を知っているから適度な中間をとっていけるし工夫ができる。善に偏らず、悪に偏らず、味のある生き方を大事にしなさいというのです。
例えば、凄く切れる包丁は、野菜を切るときは「善」だけど、指を切ってしまったら「悪」になる。善も悪も持っているのが現実なのです。
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満員電車の中でお年寄りに席を譲ろうとする。すると一瞬、悪なる自分が問い掛ける。「無理すんなよ、かっこつけるなよ!」と。しかし、席を譲りお年寄りから「ありがとう!」と笑顔の一言で気持ちが変わる。偽善から善に。
「やってさしあげよう!」という善と、「やらなければならない!」という抑圧的な悪、双方が心の中に潜み、席を譲れば良い人、そうでなければただの人となる。
人が見てればゴミを拾うし、見ていなければ拾わない。やはり、人が見ていればよく見せたいという、やっかいな感情が湧いてくる。
それでも偽りの行動であろうとも、善なる実践を続けてもらいたいと考えるのです。自分には嘘はつけません。自分に嘘を言い続けることは苦しいことです。だから続けるのです。
長年の継続の先に「見える」のは、「何のために」という答えを見つけることができると思えるのです。