2015年10月15日(木) 393/1000
<心眼を使う>
皆さんおはようございます。
二宮尊徳(二宮金次郎)氏の7代目子孫 中桐万里子氏と座談会 その5
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金次郎は「心眼を使え」とよく言います。
心眼とは悟りみたいなイメージがありますが、体験を思い出すことと思うんです。
例えば、自分が子供だった時の体験とか、自分がイライラした時、嘘をついた時、いじわるとした時などの体験です。
なんで嘘をついたんだろうか、なんでいじわるしたんだろうかという体験を思い出すことが「心の眼」を使うことと理解しています。相手の立場に立つということではなく、自分が同じような経験したことを思い出すことに「答え」があるように思うのです。
真っ暗な夜に肉眼で見ようとすると何も見えない。だから人間はロウソクを使おうとする。しかし、ロウソクを使っても一部しか見えません。でも心眼を使えば全部が見える。目を閉じて昼間の景色を思い出すこと。体験に戻るということです。
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欲の皮が突っ張った私には心眼どころか目の前の物さえも見えないときがある。なんとも情けないのである。視界も視野もちょー狭い。
「心の眼を開く」とは何か特別のパワーのようにも感じます。怒り、悲しみ、欲望などの想念によって人間の本来もっている心の眼が曇っしまっている。
呼吸を整え、目を閉じ思い出す。家族、両親、友人、会社の仲間、ご先祖様、この命の鼓動は私ひとりでここまで辿り着いたものではないことを。だから生きるということに誠実に真剣に向き合おうと暗闇の中で感じてくる。
「見る」と「見える」とは違うように思うのです。
「見る」は目の前の事実、「見える」は過去の体験を通じて今やるべきことを感じる。
「見える」ことは、直感とか感性なのかもしれません。でもその感覚を磨き上げることは、決して馬鹿げたことではなく、偽りの自分から開放し真に生きることに目覚め、暗闇の中に光を感じる
ことのようにも思えます。