2017年8月18日(土) 1003回目
<忍耐>
致知7月号(致知出版社)
「禅語に学ぶ」 より抜粋 その1
鎌倉円覚寺管長 横田南嶺氏
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かの文豪夏目漱石も参禅した釈宗園(しゃくそうえん)老師は二十代の半ばで禅の修行を終え、更に慶応義塾に学び、その上セイロン(スリランカ)に渡り、仏教の根本を本格的に学ぼうとされた。足かけ三年ばかり修行されて帰国されている。
その出立に当たって、師匠の今北洪川(こうせん)老師が宗園老子に書き与えた手紙が今も東慶寺に残っている。書院に額装されて飾られていて、私も拝見する度に襟を正す思いだ。
洪川老師は、遠く異国の地へ修行にゆく弟子に、『羅云忍辱経(らうんにんにくきょう)』というお経の言葉を引用して、ただひたすら「忍」の一文字を説いて聞かせている。『羅云忍辱経』はお釈迦様が、弟子であり、また実の子でもあった羅云(らうん)ことラゴラ尊者(そんじゃ)に語った教えである。
あるときラゴラが、同じお釈迦様のお弟子であるシャーリプトラと共に町を托鉢していた。そのとき暴漢に襲われてラゴラが怪我をしてしまった。
先輩に当たるシャーリプトラはラゴラに、仏弟子たるものは如何なることにも堪え忍び、決して怒りを懐いてはならぬと説き聞かせた。ラゴラも普段はお釈迦様の教えを学んでいるので、「はい、このような痛みは一瞬のものです。むしろ危害を加えた彼の方が、その罪の為に長く苦しむことになるでしょう。気の毒なのは彼の方です」と答えた。
お釈迦様の元に帰った二人は、その出来事を報告する。お釈迦様は怪我をさせられても決して怒らず堪え忍んだラゴラを褒めて更に「忍」のすばらしさを説いて聞かせた。
「忍は安宅為(あんたくた)り」―耐え忍ぶことこそ安らかな家であること。
「忍は大船為(だいしゅうた)り、以て難(かた)きを渡るべし」-忍は大きな船のように、困難な世の中を渡ってゆけるものであること。
「世は怙(たの)む所無し、唯だ忍のみ恃(たの)むべし」-忍こそがこの世の頼りとすべきものであること、など。
その中に「忍を懐いて慈を行ずれば世々怨み無し。中心恬然(てんぜん)として終(つい)に悪毒無し」という言葉がでてくる。
自分の身に降りかかったことは堪え忍んで、むしろ自分に辛く当たる者こそ却って気の毒な者であると、逆に慈悲の心で思いやれば、どんな時代にあっても怨みの心は起こらないし、心はいつも穏やかで、悪いことは起こらないという意味である。
お釈迦様は、単に堪え忍ぶばかりではなく、むしろ相手を思いやる心の広さを説かれた。どんな人にも仏心は具わっている。これが仏教の一番の心理である。ただ残念なことに、目先のことに心を奪われてしまい、尊い仏心を見失っている。そのことが気の毒なのであり、むしろ、こちらから慈悲の心をもって憐れんでゆく。そうすればこそ穏やかで安らかな心が生まれる。
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生きるということは、人間関係の中で生きていくと言っても過言ではありません。
多くの悩みは人間関係の中から生まれてきますが、人間関係の中から希望も生まれてきます。だから、よい人間関係を築いていくといことは、人生を楽しむということにもなるように思えるんです。
それでも、嫌な事を言われたり、されたりした時には腹が立ちます。そんな時は感情をむき出しにするのではなく、広い心をもって流していくような大きな懐を持っていたいです。
歳を重ねていけば、体は衰えていきますが、精神(心)の年齢は、自分次第でどこまでも成長できるのではないかと思えるのです。だから、日常生活を精神(心)の鍛錬の場と捉え、嫌なことから逃げず、忍耐をもって生きていきたいと思います。