2015年7月12日(日) 298/365
<死の恐怖からの開放>
皆さんおはようございます。
致知7月号
「我ら八十路も溌刺(はつらつ)と生きん」より抜粋 その5 (対談)
東洋思想家 境野勝悟氏
ホリプロ創業者 堀 威夫氏
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(境野)
命とは自然なんだから、用事が終わればちゃんとお迎えが来てくれるようになっている。だから、僕は死ぬことは一切考えていないし、死に対する恐怖は一切ありませんね。第一、年をとってからの死は一番元気をなくします。
(堀)
僕はやせ我慢で恐怖がないように振る舞ってはいるけれども、やはり怖いものは怖いね。あたなは、一次元上を行っている。
(境野)
実は僕も六十代までは死が怖かったんです。それをどうして克服できたというと、七十を過ぎて、若くして死んだ親父や兄貴のことを考えた時、「自分は長生きしてこれだけの仕事ができた。ありがたい」と思いが込み上げてきたんですね。そう思っていたら死の恐怖が自然となくなってしまっていた。
これまで生きてきた中に感謝、感動の心があると、裏側に死という意識が不思議と来ないんです。だから「俺みたいな人間がこれだけ生かせてもらって、これだけの仕事をさせていただいた。ありがとう」という気持ちだけはいつも持つようにしています。
死ぬ時も「長い間、ありがとうございました」と言えると思います。
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人間は死んだらどうなるのだろうか。仏教では、肉体と魂は別物で、肉体は船、魂を船頭と例えています。この三次元の世界にいる我々は一体何のためにいるのだろうか。そんなことを考えても答えはでない。少なくとも肉体である船は老朽化して動かなくなる。その時が死であり、魂は別次元に帰っていくのだろうか。
死は怖いが、どんな人も避けられそうにない。そうであれば、この世を楽しみたい。
楽しいとは表現が軽すぎるかもしれないので、充実した人生、生きがいのある人生という言葉の方がいい。
不平、不満、愚痴は分からないわけでもないが、言ったところで解決するものでもない。そのような事は、どんな人にも、どんな出来事にも必ず存在しているように思うから。
ならば、それを受け入れ、もっとよい方法はないか、もっと楽しめる方法はないか、
そして、もっと人に喜んでもらえる方法はないかとプラスに考えた方が楽しむことができそうである。
どうせ死が待っているならば、この世をみんなで楽しもうではありませんかと前向きに捉えたい。多くの人の良い知恵が集まり結晶の如く美しく輝けば、きっと多くの人が笑顔になる。そんな思いに到達すれば、死への恐怖から開放されるような気がするのです。