2015年7月2日(木) 288/365
<太陽と雲>
皆さんおはようございます。
致知7月号
「我が国の伝統を継承する真の国際人を育てる」より抜粋 その1
オンリーワン幼稚舎 志道不二子氏
********************************************************************************************
私たちの園は宗教とは一切無関係ですが、お散歩の時にはよく神社にお参りするんですね。
それも二礼ニ拍手一拝という作法に則って行い、その意味も教えます。
「二礼する時は天の神様と、大地の恵みにそれぞれ感謝しましょう。私たちは農耕民族だから、
ご先祖様は作物を育ててくれる太陽がどれだけ大切かを知っていた。
昔から”お天道様が見ている”という言葉があるけれども、命の大本である神様に心から感謝しましょうね」と。
これも面白い実話ですが、両親から「何を祈ったの」と聞かれたお子さんが「恵みをありがとうございます、と祈ったんだよ」と答えた時、皆さん「えっ」と驚いて引かれるみたいです(笑)。大人が祈ることって宝くじがどうとか、商売繁盛がどうとか、そういうことばかりじゃないですか?
私はよく「あなたたちは天の神様に照らされる大木だ」と言うんです。
その言葉のように天からエネルギーをたくさんもらって志や夢を育んで大木になってほしいですね。
********************************************************************************************
学校教育はテストでよい点数をとることがよいことであるという教育を受けてきた。
よい高校に行き、よい大学に行き、よい就職先につくことが「人生の勝者」であるという教育であったように思う。
行きつく先は、相手を負かし、弱い者を蹴落とし、お金があればなんでもできるという思想になっていく。お金は大事であるが、お金が全てとなれば、神様はいらない。
それでは日本の伝統的な文化、思想は意味を失う。それでいいのだろうか。
神社は願い事を叶えてもらうためにお参りするのではなく、生かされていること感謝をして、御礼を伝える場と考えています。
太陽が陽を照らし大自然に恩恵を下さる。雲があればその光は遮られる。
しかし太陽は万民平等に光を照らしてくれている。
例えば、太陽を神様と考えてみる。
神様は、どんな人にも光を照らしてくれるはずだ。しかし、愚痴、不平、不満、怒り、不足などという分厚い雲に阻まれてしまい光がとどかない。
その雲の原因が自分の心であると気づいた時、雲の切れ間から光が差す。そして、雲の厚さは次第に厚みをなくし多くの光が届くようになる。
幸運、ツキ、出逢い、幸せ、そんな目に見えない光を感じることができるのではないだろうか。
その光源に気づいた時に、過去の自分を振り返り生き方が変わってくる。
そんな気がしているのです。