2015年5月17日(日) 242/365
<生きているだけで丸儲け>
皆さんおはようございます。
「二宮金次郎の幸福論」より抜粋 その13(最終回)
二宮金次郎 七代目子孫 中桐万里子氏
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あるとき、「世のため人のために尽くそうと思えるようになるためには、何が必要なのか」と尋ねられたことがありました。そのとき私はこの話を思い出しました。
この話は、一見すると「人にいいことをしなければ自分は幸せになれないのだから、欲を制して他者のために尽くせ」という禁欲主義的なお説教のようでもあります。
けれども少なくとも私は、この解釈にはひどく違和感をおぼえます。
金次郎の発想はいつだって、「自分が報われるためには・・・」ではなく、「自分が報いるためには・・・」だったからです。
さらに言えば、彼はいつだって自らの力を「貯める(抑制する)」ことではなく、「使う(活かす)」方法を考えつづけていたからです。
この話は、いま眼前の”たらい”に水が入っている。そのことへの感動や喜びを始めに考えるほうが自然です。何も持たずに空っぽの”たらい”として生まれた自分に、いまや豊かになみなみと水が注がれている。親や祖先が、先生や友人が、暮す地域や自然が、先人先輩が、同世代を生きる同志が・・・”たらい”を満タンにしてくれた。
プレゼント好きだった祖母も、そして勿論、金次郎も、基本的には「生きているだけで丸儲け」を心から実感して人生を送っていました。それは、自分という”たらい”に、すでに充分な水が与えられている幸福と知っていた人たちということです。
自分はすでにたっぷり幸せで、もう幸せなんて要らないよと推しやっても、それでもなお驚くほど戻ってきてしまうのが幸福というものだと。幸福は、不思議なことに吾が身からは絶対に離れないのだと。
ただし唯一、幸福が私たちから離れることがあるとすれば、それは目の前の水がある幸福を忘れ、「まだ、足りない、まだ足りない」と焦り、もがき、かき集めようとするときだけだと。
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「足るを知る者は富む」とは、老子の言葉です。
豊かさとは、「どれだけ多くのものをもっているか」ではなく、「どれだけ多くのものを必要とせずにいられるか」によって測られます。欲に苦しめられている人は、その欲を満たすためにどれだけ努力しても、苦しみから逃れることはできません。という教えです。
自分一人だけの喜びは心から幸せと言える実感を得られないと思えるのです。
自分一人だけの喜びは、もしかすると孤独という、実に寂しい代償なのかもしれません。だからこそ、今、自分が生きているのは、両親、友人、会社の人たちなど、多くの人の支えがあったからです。
そのご恩に感謝して報いることが、その人の大きな器となっていくものと考えたいのです。