2015年1月4日(日) 109/365
<小宇宙と大宇宙>
皆さんおはようございます。
中学校の理科の時間、原子の周りに分子が回っていることを学び、不思議なことに気がついた。太陽系の構成である。
太陽の周りに惑星が回っている。さらに太陽系は、銀河を中心に回っている。
恐らく、銀河も何かを中心に回っているのだろう。ミクロもマクロも同じだ。その時は、ただ不思議だけを思っていた。
科学技術が飛躍的な進歩を遂げ、ハップル宇宙望遠鏡がとらえた無数の銀河である。
この映像を見たときに”ぎょっと”した。なんて宇宙ってどでかいんだろう。
この中に人間のような知的生命体がいないと考える方が理屈にあわない。
我々が住む銀河の中の太陽系、太陽系の中の地球。そこに人間として生まれた。それも日本人。
これは、人間として生まれてくることは、気の遠くなるくらい奇跡的なことと思った方がいい。
それなのに、いつも些細な事にくよくよ悩んでいる。
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あるコラムを読んだ。
筑波大学名誉教授の村上和雄氏
「ありがとう」の語源は、「有り難い(有り難し)」という言葉です。
これは文字どおり、「有ること」が「難(かた)い」つまり存在することが難しいという意味です。
実は、「ありがとう」は、仏教に由来した言葉です。
お釈迦さまの教えを弟子たちがまとめたとされる有名な話があります。
あるとき、お釈迦さまが阿難(あなん)という弟子に「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか」と尋ねられました。
「たいへん、よろこんでおります」
阿難がそう答えると、お釈迦様が、重ねて尋ねられました。
「では、どれくらいよろこんでいるか」
阿難は答えに窮します。
すると、お釈迦様は、一つのたとえ話をされます。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。
広い海には一本の丸太が浮いている。
その丸太の真ん中には、小さな穴がある。
丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、西へ東へ、南へ北へ、と漂っている。
阿難よ、百年に一度浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、丸太の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」
阿難は驚いて、答えます。
「お釈迦様、そのようなことは、とても考えられません」
「絶対にない、といい切れるか?」
お釈迦様が念を押されると、
「何億年、何兆年の間には、ひょっとしたら頭を入れることがあるかもしれません。
しかし、『ない』といってもいいくらい難しいことです」
阿難が答えると、お釈迦様は、
「ところが、阿難よ、私たち人間が生まれることは、その亀が、丸太棒の穴に首を入れることがあるよりも、難しいことなんだ。
有り難いことなんだよ」と教えられたのです。
私たちは人間に生まれたことを当然のように思っていますが、人間としてこの世に生まれてくれることは、何億年、何兆年に一度めぐってくるか否かというくらい稀(まれ)なことである。「有ること難し」とは、つまり、珍しく貴重なことである。
存在する事が難しい、とお釈迦さまは説いているわけです。
我々が人間として生まれてくることは、気の遠くなるくらい、稀(まれ)で、奇跡的なこと。もしかしたら、ほんの少しの間違えで、ミミズやハエとして生まれてきても、文句も言えないのだ。
それなのに、我々は、些細なことに目くじらを立てたり、不平不満を言ったりする。
奇跡の連続が続いたからこそ、我々は生まれてくることができた、と悟ったとき、感謝が生まれる。だからこそ、自分を粗末にしてはいけない。
誰もが、無限大ともいえる数の人間や、他の生物の代わりに生まれてくることができたのだから。「有り難し」という言葉の意味を、今一度かみしめたい。
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人生80年、ほんの一瞬。宇宙時間からすれば一瞬である。この奇跡的なことを有難いと思った方がいい。
一生懸命に生きよう。折角頂いた命。次は、どこの星に生まれてくるか分からない。もしかしたら人間じゃないかもね。
願わくば、再び皆さんとお会いしたいです。