2018年5月12日(日) 1008回
<今をどう生きるか>
迷子のすすめ(春秋社)より抜粋 その2
阿 純章著
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道元さんが中国で修行中、先達の語録を熱心に読んでいた。すると、ある僧侶がこう尋ねた。
「道元さん、ずいぶん熱心に本を読んでおられるが、それは何のためですか?」
「禅について勉強するためです」
「その勉強は、何のためですか?」
「日本に帰り、人々を導くためです」
「それは何のためですか?」
「人々を救うためです」
「つまるところ、それは、何のためになるのですか?」
ここまで問い詰められては、さすがの道元禅師も一言も返すことができなかったという。そして、そこ後は「何のため」とも考えることなく、ただひたすら座禅に励んだそうだ。 やがて道元禅師は帰国し、宇治に興聖寺を開いたときに、集まった修行僧たちにこのように話した。
私はあまり多くの寺で修行をしたわけではない。ただ、たまたま天童山の如浄(にょじょいう)禅師と出会って、眼はヨコに、鼻はタテに付いていることを悟り、もう人に惑わされることが無くなった。そこで経典も仏像を持たず手ぶらで日本に帰ってきら。だから仏法などというものは少しも持ち合わせていない。ただ、日々時に任せて過ごしているだけである。毎朝、日は東から昇り、月は西に沈む。雲が流れ去れば山が姿を現し、雨がやめば山の樹木や草花は潤って低くたれる。ただ、それだけである。
普通、わざわざ中国まで留学したのだから、日本に帰ってきたら、これまでになかった最新の仏法を伝えるか、珍しい仏像や経典でも持って帰って人々に披露するものだが、「眼はヨコに、鼻はタテに付いている」という当たり前のことを教わり、手ぶらで戻ってきたと言ったのだ。これには期待して集まった僧侶たちもズッコケるぐらいにびっくりしただろう。
ただそれは決して人をたぶらかすためではなく、「人は何のために生きるのか」という問いに対する道元禅師の答えだったのである。
道元禅師にとっては、人は何のために生きるのかということよりも、「今をどう生きるか」が大切であるということを坐禅によって体得したのだ。
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「今をどう生きるのか」。これは、大変な難題です。「今をどう生きているのか」、という問いに対してもはっきりと答えられません。どうにもならない過去を憂い、まだ分からない未来を憂い、八方塞になってしまう時もあるわけです。
過去は変えられるわけでもないので、過去は自分にとって必要であったと考えること。見えない未来を勝手に心配事にしてしまい、ネガティブ思考へ流されていく。そんな生き方はやめていこう。
なりたい自分を具体的に描き、そのために今日を精一杯に行動すること。昼寝なんてしちゃいられない。自分に与えられた時間は有限であるから、今日一日という時間を大切にすることが、命を大切にすることのように思えています。